週刊アイについて

アイドルマスターやその他諸々

青春が死ぬこと

今日、wowakaさん(現実逃避P)の訃報が入った。ボカロ文化の盛り上がりを支えた1人であったと思うし、ヒトリエのボーカルとしても活躍なさっていたと聞く。

ボカロが自分の周りで流行り始めた、自分が流行を知ったのは「メルト」から約5年後、自分が小学6年の頃だった。当時の校内放送で流れた時の違和感(当時はしょうがない)の凄まじさは結構今も覚えているものだ。確かその時はマトリョシカと千本桜だった。

中学生の時代がボカロ全盛期だった。悪のシリーズとかモザイクロールだったりとか、そういうのが流行った時代だ。それからカゲロウプロジェクトの人気が爆発して…とまあそんな感じだったのだ。wowakaさんの曲の裏表ラバーズやワールズエンドダンスホールは今でもたまに聴く曲だ。しかし懐古が今回の本題ではないのでここら辺にて収めておく。

今回の訃報を聞いて、もちろんとても悲しい気持ちになった。しかしファンというわけでもない私にとっての悲しみなど応援していた人のそれとはまた別の種類のものなのだろうと思う。青春とか思い出が死ぬことへの寂しさだろうなと思った。嵐の活動休止発表のときも同じ気持ちになった。

青春を共にした文化が消えることはどうしてこんなに寂しいのだろう。

ふんわり高校を卒業して、大学に入ってもつるむ仲間もあんまり変わりばえがしなくて、なんとなく今もずっと青春のままにいるような気がする。私だけじゃなくて、人はみんな思い出と今の区別なんて本当はついていないんじゃないかなと思う。それは若い若くないとかの問題ではなく、である。

なにか事件があって初めて、あれは昔のことなんだな、と現実と過去の間に扉ができる。あの時は昔、今は今なのだという線引きがその扉によって始めて為されるから、こんなにも寂しいのかなあ。